信仰継承における教理と対話
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#仕事の神学153 執筆担当:吉澤慎也(総主事)
教会で育つ青年たちにキリスト教教理を伝えることは、とても大切である。彼らが抱えているさまざまな問いや疑問の中には、教理的な視点から丁寧に答えることで、解きほぐされるものも少なくないからだ。教理を一方的に教えるのではなく、彼らの問いや必要に応える形で伝えていくことも、とても良い関わり方だと思う。
私はクリスチャンホームに育ち、幼い頃から教会に通っていた。教会では多くのことを教えてもらったが、同時に、分からないこともたくさんあった。「何か変だ」「なんだか納得できない」と感じることも少なくなかった。
しかし、当時の私は、そうした疑問を教会の大人たちに尋ねることができなかった。教会で教えられていることに疑問を抱くのは不信仰であり、何も疑わずに信じることこそが、より良い信仰のあり方だと考えていたからである。
なぜ、そのように考えるようになったのだろうか。私が勝手にそう思い込んでいただけなのかもしれないし、教会に何となくそのような雰囲気があったのかもしれない。
だからといって、誰にも尋ねることのできなかった疑問を、自分自身で解決できたわけではない。それらが私の中で自然に消えていくこともなかった。時折、その一部が解消される機会はあったものの、次々と積み重なっていく問いを抱えながら、私は教会を離れることなく大人になった。
その後の歩みの中で、それらの問いを率直にぶつけることのできる交わりに出会えたことは、私の信仰の歩みにとって非常に幸いだったと、今になって思う。
青年たちが、時に迷い、疑いを抱くことは、ごく自然なことだ。教会には、それを禁じたり、すぐに否定したりするのではなく、温かく見守る姿勢が必要だろう。そして、自分の迷いを自由に分かち合える交わりや、自分の疑問に真摯に向き合ってくれる人が、教会には必要である。
青年たちの教理的な疑問に、その場ですぐに答えられなかったとしても、大きな問題ではない。答えは次の機会でもよいのだ。それよりも大切なのは、「自分の問いを受け止めてもらえた」と青年たちが感じられることである。そのような安心できる交わりが教会にあることを願う。
最近では、カテキズム、すなわち信仰問答の形式で書かれた良書を、よく見かけるようになった。そうした本を手に取るたびに、「自分が若かった頃に、このような本に出会えていたらよかったのに」と思わされる。もっとも、実際にそのような本が身近にあったとしても、若い頃の私が進んで読んだかどうかは怪しいのだが。
もちろん、すべての青年が同じではない。しかし、教理的な疑問が解きほぐされることによって、信仰が強められる青年は、教会の中にきっといるのだ。