まことの王の到来
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ショートメッセージ#122 執筆担当:永井創世(東北地区責任主事)
「これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。」
マタイの福音書2章3節
嬉しくないプレゼントをもらって動揺した経験はありますか。まことの王なるイエス様の降誕に際した人々の反応は、まさにそのようなものでした。ヘロデは王としての自分の地位に固執し、結果、イエス様を殺そうとし、最終的にはベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子を皆殺しにする異常な暴力性を見せます(マタイ2:16)。興味深いことに、聖書はヘロデ王だけではなく、エルサレム中の人々も動揺したと記しています。王を見て動揺したのです。ユダヤ人である彼らは救い主の到来を待ち望んでいたはずです。しかし実際には、神よりも目の前の権力を恐れ、「波風立ててほしくない」というのが本音でした。この姿は暗い前触れであり、30年後に同じエルサレムにて、指導者に煽動された人々は、イエス様の十字架刑に深く加担していくことになります。
イエス様の降誕に際するこのような反応は、私たちの姿と重なります。なぜなら私たちも本音では、心から王なるイエス様の到来を喜べない、罪や弱さの現実を抱えていたりするからです。ヘロデ王のように自分を王とし、自分の人生を自分でコントロールしていたいと思っていたりする。だから、ある部分では委ねてささげることができたとしても、例えば恋愛やお金のこと等、神様に口出しされず自分が王でい続けたい領域を持っていたりする。あるいはエルサレムの人々のように、神様よりも目の前の現実や人のリアクションに心が支配されていて、振り回されていたりする。そして、その結果私たちは自分や自分の人生を治めきれず、いつも不安で、簡単に人を傷つけ、失敗した経験を数多く持っているのではないでしょうか。
クリスマスは、そんな私たちの暗闇を照らし出します。しかし同時に、まさに私たちのそのような罪や弱さの現実の只中にこそ、イエス様が救い主として世に来られたことを伝える喜びの出来事です。聖書が最も伝えたいのは、その暗闇にこそ与えられた光としてのイエス様です。同じマタイの福音書1章21節で、御使いがヨセフにこう伝えていました。
「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
マタイの福音書1章21節
イエス様は、私たちを罪から救うお方としてこの世に来られました。この方は私たちのまことの王として地上に生まれてくださいました。良い王のいる国には、平和で幸せな暮らしがあります。私たちの抱える罪の問題は、正しい王がいないことによるものです。自分が王となっている、あるいは他の王を恐れているからです。しかしクリスマスは、このイエス様を王として私たちが迎え、神様を信じて従う新しい人生へと私たちを招こうとする出来事です。しかもこの王は、力で私たちを支配しようとするのではありません。私たちを愛し、私たちを罪から救うために、私たちの身代わりに十字架にかかって死んで、赦しを与えてくださるのです。
このアドベントの季節、今一度私たちは、自分自身の暗闇に目を止める必要があります。同時に、そこに光として来てくださった王なるイエス様を覚え、この方を王とする人生へと歩み出したいと思います。それは、手放すべきものを手放し、委ねるべきものを委ね、聞くべき声に聞き、まことの王の愛と赦しの中を歩むということです。そして、この方が再び来られる日を待ち望みつつ、そんなアドベントを過ごしていきたいと思います。






