祝福として生きる――宣教への不安から確信へ
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証し#117 執筆担当:坪内栄希(中四国地区運営委員長、岡山東京理科大学3年)
初めまして!中四国KGK運営委員長の坪内栄希と申します。今回、KGKブログの執筆の機会を与えてくださったことを心から感謝します。
さて、今年度の中四国KGKは「みことば種まき大作戦」というテーマのもと、「宣教」について共に向き合っています。皆さんは、そもそも宣教をしたいと思っているでしょうか?また、伝えたい相手の顔が思い浮かぶでしょうか?
6月末に行われたテーマ合宿では、まず「宣教とは何か」という問いを立て、皆がどのように宣教を捉えているのかを確かめ合いました。そこでは、「自分がまだ神様のことをよく分かっていないのに、友達に伝えていいのだろうか」「友達は福音がなくても幸せそうだから、宣教したい思いが与えられない」など、率直な意見が多く出ました。それでもイエス様は私たちにこう命じられています。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」 (テモテへの手紙第二 4:2)
なぜイエス様はこの命令を与えられたのでしょうか。宣教への不安や恐れの中で、私自身「自分はどうありたいのか」分からなくなることがありました。しかし、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者の書 3:11)このみことばの通り、神様は確かに最善の時に働かれるお方です。8月末に行われた夏期学校で、私の中のもやもやが少しずつ解かれていきました。
今回のテーマは「聖書の核心、私の確信」。聖書は何を土台としているのか、クリスチャンは何に希望を置いているのか――そのことを仲間と4日間、深く考えることができました。その中で、特に心に残った言葉はとてもシンプルなものでした。 それは、「神様は私たちを祝福としたい」ということです。
神様はアブラハムに言われました。
「あなたは祝福となりなさい。」(創世記12:2)
神様はまず、私たち一人ひとりを祝福としたいのです。そしてアブラハムを通してすべての民が祝福されたように、私たちを通して周りの人々をも祝福しようとされています。祝福は、伝播していくものなのです。
私は今、自分が望んでいた分野ではない大学で学んでいます。そのため、「本当にこの大学に導かれたのだろうか」と疑問に思う日々もありました。勉強が辛くなることもあり、宣教も「義務のように」感じてしまっていました。しかし、「神様が私を祝福とされた」という約束を心から信じたとき、今の大学に遣わされていることも、私自身を祝福するため――いや、それだけでなく、そこにいる友達や環境を祝福するための神様の計画なのだと気づかされました。そのとき、「宣教したくない」という選択は自然と消えていったのです。それでも不安な時はあります。けれど、私たちには仲間がいます。感謝なことに、数年間学内の活動がなかった私の大学に、今は5人ものクリスチャンの仲間が与えられました。学内だけでなく、岡山、そして中四国全体にも信仰の友がいます。中四国KGKの仲の良さを言葉で表現するのは難しいですが、中国5県・四国4県、それぞれの場所で同じ神様を信じ、信仰に生きる仲間がいます。久しぶりに再会すると、心がぽっと温かくなり、自然と笑顔がこぼれる。そんな仲間がいる中四国KGKを、主にあって誇りに思います。






