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教会における信仰継承について・その7


コラム#7 執筆者:吉澤慎也(総主事)



先日、ある教団の牧師研修会で「若者の牧会」と題して講義をさせていただいた。教職者として牧会の現場に出られて数年という方々が、熱心に聞いてくださった。質疑応答の時間に次のような質問がなされた。「自分の教会には、いわゆる若者が今はいません。そのような中で、若者への宣教としてどういった取り組みができるでしょうか?」


実はこのような質問を受けることは珍しくない。現在、日本の教会は信徒の高齢化が急速に進んでおり、裏を返すと教会の若者の数が減少している。例えば2014年の日本基督教団のデータでは、30歳未満の信徒の比率は5%を切っている。これがティーンエージャーということになれば、そのパーセンテージはさらに低くなるだろう。つまり「若者がいない」という教会は、決して珍しくないのだ。そしてそのような教会に集っておられる多くの方々が、自分の教会にも若者に来てほしいと願っていたり、どうしたら若者に来てもらえるだろうか?と考えていたりすることは、すごく当然のことだと言えよう。


「今は」子どもや若者がいない、という教会であっても、「かつては」子どもも若者もいた、という教会は多いはずだと私は考えている。何年か、あるいは何十年か以前には、そういう時代があったのではないだろうか。しかし、その当時教会に来ていた子どもや若者たちは、その後何らかの理由でその教会から離れてしまい、残念ながら今はもう集っていないということを、それなりに多くの教会が経験してきたのではないだろうか。


私がお勧めしたい「取り組み」は、かつていた若者たちは何故教会を離れてしまったのかを教会全体で考え直すことである。そこには教会の側にも何らかの課題があったからだと考えられるからだ。そしてその課題は、実は今もまだ残されている可能性もあるからだ。その部分について教会全体で検証し、必要に応じて見直していくことは、その教会のこれからの若者宣教にきっとつながっていくだろう。逆に、もしその部分の検証を充分にせずにいるならば、仮に新たな若者がその教会に足を運ぶことがあったとしても、同じ轍を踏んでしまい兼ねない。


かつて教会にいた人が離れてしまった理由について考え、分かち合うことは、痛みを伴うことだ。その家族が今も教会にいる場合は、話し合うこと自体が躊躇われるかもしれない。しかし私は、教会における信仰継承を考え、取り組んでいくためには、どうしても必要なプロセスではないかと考えている。過去のことを責めるのでもなく、痛みに共感し、真摯な悔い改めに導かれるような建徳的な話し合いが教会において積まれていくその先に、教会の信仰継承と若者宣教の未来があるのだと信じている。



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