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矛盾だらけの私を抱きしめてくれる

  • 執筆者の写真: KGK公式ブログ
    KGK公式ブログ
  • 3 時間前
  • 読了時間: 3分

証し#132 執筆担当:井上暁希(北海道地区担当主事)


GAの時代からいつも悩み続けていることがあります。自分は主事なのだろうか、それとも井上暁希なのだろうか。それとも両方なのだろうかという問いです。


KGKの主事として歩む中で、いつも井上暁希としての自分と、主事として見られる自分の葛藤があります。まさか主事が礼拝に遅刻しないよね。まさか、主事が聖書を読みたくないなんて思わないよね。まさか主事が。そんな声が自分の中から聞こえてきます。でも、僕だって、眠すぎる日曜日の朝や、聖書を開けなくなる時もあります。教会楽しいと思えない時もあります。


クリスチャンとして、生きる自分と、まるで真逆なように見える自分が同時に存在する。この表と裏のような、ギャップに苦しみながら、神を礼拝している。これが僕の等身大の姿です。表を頑張れば頑張るほど、裏側にある闇もまた深くなっていくように感じる。その繰り返しを生きています。


でも、同時にそんな相反する自分の姿に気づく時、神様を礼拝することは、「私が」という主語を手放すことだと強く教えられています。


自分が自分がと、頑張る信仰は、教会生活は、生き方は続きません。どこかで何かが壊れていくんです。表が輝いているように見えても、裏側が壊れていくのです。


でも、そこで気づくことは、礼拝者として生きるとは、私がという生き方から、キリストが私の内に生きてくださらなければ、私には何もできないということを、ただただ実感することだと思います。


北海道に来て、寒いなーと思います。寂しさを覚えることもあります。KGKで関わる学生を愛するどころか、腹を立て、裁いている自分がいます。KGKが嫌になることもあります。教会を愛せない時があります。み言葉に生きられない自分がいます。人を羨ましく思い、嫉妬する自分がいます。弱さと欠けと、汚さをもつ、ただ、赦された罪人なのです。


でも、そう思うからこそ、神様を礼拝することなしに、賛美し、祈り、み言葉に聞くことなく、やっていられないとも思うのです。矛盾しています。一貫性がありません。僕はそういう人間なのです。


僕は神様によってしか、この裏と表のギャップが統合されていかない。キリストに似たものへと変えられていかない。そう思います。


自分の目には一歩ずつ一歩ずつ。本当に少しかもしれない。でも神様の目から見た時、確かな一歩を歩んでいる。こんなアンバランスな私を抱きしめ、共に歩んでくださるあなたと共に今年も生きていきたいと祈ります。ぜひ祈ってください。これを読んでくれるあなたのことも覚えて祈ります。


「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今、私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ人への手紙2章20節/新改訳聖書)

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