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葛藤を共にする交わり。その只中に立つキリスト。


ショートメッセージ#24 執筆担当:永井創世(東北地区責任主事)


「そこで、ほかの弟子たちは彼に『私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません』と言った。」ヨハネの福音書20章25節(新改訳2017)


10代の頃の私は、自分の信仰や聖書に対して多くの疑問があることに気がついていながら、それらをことばにできないでいました。下手に言葉にしてしまうと、自分自身や教会の大人たちの信仰を否定してしまうことになりそうで怖かったからです。そして、熱心な人たちとの温度差を感じながらも、良いクリスチャンを演じ、「不信仰」の烙印を押されないようやり過ごしていました。


しかし、トマスは違いました。トマスは他の弟子たちが復活の主に会って盛り上がっていたにも関わらず、「決して信じません」と言いました。特別疑い深い人だったわけではありません。偶然他の弟子と一緒にいなかっただけです。そして、大好きだったイエス様の復活は、信じられるなら信じたかったと思います。しかし、トマスは空気を読んで信じたふりをすることなく、信じたいことと現実との間で真剣に葛藤する正直な思いを表したのです。


このトマスの姿勢は大切です。なぜなら、この葛藤の只中でこそ、トマスは彼自身としてイエス様に出会うからです。イエス様はトマスの葛藤を知りつつ彼に現れました。そして、愛の叱責と共に、「見ないで信じる」という信仰の深みへと招きました。この時初めて、トマスは「私の主。私の神よ。」(28節)と言います。それは、周りの空気に合わせて表す信仰ではなく、彼自身の真実な心からの信仰の言葉でした。


私たちも信仰生活の中で、信じたいことと現実との間で葛藤したり、疑問を抱いたりする経験をします。しかし、それらをうやむやにせず、真剣に悩むことが大切です。それは信仰のゴールではありませんが、大切なプロセスです。なぜなら、その只中にこそキリストは立ち、みわざを表してくださるからです。そして、その経験は私たちに、親の信仰でもなく、他の誰の信仰でもない「私の信仰」を与える原体験となるのです。


ただし、大切なのは交わりを離れないことです。トマスは周囲と温度差を感じた時にも交わりを離れませんでした。一緒に居続けたのです。また、そこにはそんな彼を受け止め、本音で分かち合える交わりがありました。だからこそトマスは、否、トマスたちは、共にイエス様にもう一度出会うことができたのです。


10代の私にとって、学生時代のKGKの交わりはまさにそのような場所でした。否定せず、さばかず、受け止め、一緒に悩み、祈ってくれる交わりでした。そして、共に聖書を開きながら、一緒にイエス様に出会っていく交わりでした。卒業後も、そんな交わりに支えられてきました。仕事、家庭、子育て…変化し続ける嵐のような日常の中で、いろいろな信仰の葛藤を抱きます。しかし、教会の交わりをはじめ、卒業後も続くKGKの交わりがいつも備えられていました。正直、少し距離をとりたくなる時もありましたが、とどまり続ける時、繰り返し主のみわざを経験させられてきました。


そんな交わりの中に、私たちはこれからもとどまり続けたいと思います。葛藤し、疑問を抱き、信仰的にボロボロになることがあったとしても、交わりから離れないでいたいと思います。そして、お互いの正直な分かち合いを受け止め、共に祈り、共にみことばに聞き、共にイエス様に出会う交わりでありたいと思います。離れているなら、帰りましょう。離れている友の顔が浮かぶなら、そのためにできることを始めましょう。私たちの主は、そんな私たちの勇気ある一歩を喜び、私たちの真ん中に立ってくださるお方なのですから。

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