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寄り添う友として

更新日:2023年11月16日


ショートメッセージ#25 執筆担当:山形宣洋(関東地区副責任主事)



「彼らは彼とともに七日七夜、地に座っていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みが非常に大きいのを見たからである。」ヨブ記2章13節(新改訳2017)


 「どんな主事になりたいですか?」という質問に、主事一年目の私は「学生に寄り添う友となりたいです。」と答えました。


聖書には“寄り添う”ことを実践した人物として、ヨブの3人の友人が挙げられます。ヨブ記を読まれた方はよくお分かりでしょうが、3人の友は、良き人物として描かれていません。実際、神様は3人の友がヨブに誤った神観(神イメージ)を伝えたと責められます。ただ今回注目したいのは、3人の友がヨブに寄り添ったからこそ、家族・財産・健康を失ったヨブが、自らの苦難の意味を神様に嘆くことができたということです。


ヨブは財産と自分の子供が一瞬にして奪われた報告を聞き「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(1:21)」と神様を賛美しました。ヨブの信仰深さに感服させられますが、ヨブ記を読み進めていくと、この時のヨブの賛美は表面的であることが分かります。彼は、自らを襲った悲しみに嘆くことをせず、神様を賛美することで、自分の正直な思いに蓋をしたのです。


「自分はクリスチャンとしてこうありたい!」という美意識は、この世界に起こる出来事を、神様ご自身を、単純化してしまう強烈な誘惑となり得ます。信仰深さとは、真っ直ぐに神様を見つめ続けていくことではありません(そんなこと不可能です)。むしろ取り巻く環境の変化や状況に、翻弄されながら揺さぶられながら「神様、どうしてですか?」と、率直に疑問や不満をぶつけられる信仰です。


「主は与え、主は取られる。…」という綺麗な言葉は、3章以降から姿を消します。むしろヨブは「私が生まれた日は滅び失せよ。(3:3)」と、自分の人生を呪うのです。汚い言葉。しかしリアリティのある言葉です。神様に本音で嘆くことができたのは、3人の友人がちりを自らの頭にかぶり(3:12)、7日間もヨブに無言で寄り添い続けてくれたからでした(3:13)。


私は主事一年目に「学生に寄り添う友となりたい」と答えました。ただ、”本当に”寄り添う友となるには、彼らのような覚悟が必要です。自分のやりたいことをわきにおいて、とことん痛みに寄り添っていく。生産的な時間ではありません。「これが何の役に立つのか」と思うかもしれません。しかしそのような時間が、私にとっての友(学生)が、正直な思いを、最も相応しい相手である神様にぶつけることができるために必要な時間なのです。


主事としてのキャリアを重ね、年齢的にも学生から離れていくように感じるこの頃。「今、私はどのように友である学生に寄り添うことができるのだろうか」と考え続けています。

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