ショートメッセージ#30 執筆担当:島田みくに(関東地区担当主事)
その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。使徒の働き 16章9節、10節(新改訳2017)
私は今年3月にKGKを退職予定なのですが、主事としての3年間を振り返ると、最も喜びがあり、最も大変さを覚えたのは、学生たちとともにする学内活動でした。クリスチャンの仲間を祈り求めてきたけど、なかなか与えられない。やる気が起きない。集まる場所がない。日程が合わない。友達に距離を置かれる。ドタキャンされる。宣教の最前線では、やたらと妨げられ、閉ざされるような体験をします。
パウロたちが踏み出した小アジアでの第二次宣教旅行もまた、初っ端から閉ざされまくる体験をしました。進んでは閉ざされ、を繰り返し、ついにはアジアの端っこのトロアスまで来た。目の前には海が、そしてヨーロッパ大陸の入口、マケドニア地方が広がっている。祈りながら進んできた。どうして閉ざされるのか。主はどこに導かれるのか。
しかし聖書はパウロたちのそんな経験を、「聖霊による」「イエスの御霊による」(6,7節)ことだと語ります。この閉ざされる経験もまた、聖霊を通して働かれるイエス様によることなのです。聖霊は、福音宣教のリーダーとして、私たちの道を導き、時に閉ざされるのです。
そんな夜、パウロは幻の中で、あるマケドニア人の祈りの姿を見ます。この幻を見た時、彼らはただちにマケドニアに渡ることを決断しました。それは「彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。(10節)」この「確信した」という言葉は、元々は「結び合わせる」という意味をもつ言葉です。これまで閉ざされてきた道、トロアスで見たヨーロッパの景色、導きを祈ってきたこと、またかつてイエス様のことば「地の果てまで、わたしの証人となる(使徒1:8)」。バラバラだった点と点がひとつに結び合わされた時、彼らは神様の召しを確信したのです。
私たちの道の閉ざされるような経験もまた、主が私たちを召しておられる道に進むためだったかもしれません。「どうか助けてください。ここで福音を語る仲間を与えてください。」あのマケドニア人の祈りを、かつての先輩たちも、私たち自身もささげてきた。道が閉ざされ、遠回りし、悩みながら導きを尋ね求めてきた。その期間を通して、私たちもまた主に信頼することを学び、この世界の痛みや叫びを聞き、主の召しを確信して、喜んで従う者へと整えられてきました。
こうしてマケドニアに渡ったパウロは、ピリピの町で福音を語ります。そこで主はリディアという人の「心を開いて(14節)」みことばに心を留めさせ、救いへと導かれます。また主は、パウロたちが捕られた牢獄でも、大地震によって牢の扉を「開いて」(26節)、看守と家族に救いに導かれました。主はピリピの町に、「主を信じる者(15節)」=「主に忠実な者」を備えておられたのです。
こうしてヨーロッパではじめての教会が誕生します。ピリピ教会は、迫害にあい、経済的にも貧しい、小さな群れでした。しかしパウロのヨーロッパ宣教、世界宣教を熱心に支える拠点となっていきました。そしてこの日本の私たちにも、福音が届けられました。
イエス様は聖霊によって、宣教の道を閉ざし、そして開かれます。イエス様自身もまた、見放され、捕らえられ、全ての道が閉ざされる経験をしました。そこでも父なる神様に信頼して忠実であり続けたことで、私たちに救いの道を開いてくださった。このイエス様の御霊によって、私たちもまた遣わされた地で、イエス様の道をともに歩んでいくのです。
だから私たちにできることは、主に忠実であることです。人が増えなくても、小さくても、弱くてもいい。困難に遭い、道が閉ざされても、慌てることはない。主はそれさえ用いて、人の心を開き、救いの道に導き、主を信じる交わりを生み出してくださる。主が私たちこの世界宣教に召しておられることを確信して、今年も遣わされた地に出ていきましょう。
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