ショートメッセージ#15 執筆担当:鈴木俊見(中四国地区責任主事)
『ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。』
ローマ人への手紙12:1
キリスト者としてふさわしい生き方ってどういう生き方だろう、何をすれば良いのだろうと悩むことがあります。イエス・キリストの救いを聞き、信じ、受け止めた私がそれにふさわしく生きたいと思うのは素晴らしいことです。KGKでも「遣わされた地で福音に生きる」ことを大切にしてきました。ただ、こういうテーマを考える時、どうしても具体的な生き方のことばかりを考えてしまうことがあります。どう生きることが、何をすることが福音に生きることなのかと考えます。そして、その通りに生きられない自分にがっかりしたり、つまずいたりしてしまうこともあります。
聖書を見てみると、キリスト者の生き方の具体的な勧めもたくさん書かれていますが、ほとんどの場合、必ず理由も記されています。例えばローマ人への手紙は、12章以降にキリスト者の具体的な生き方の勧めが記されていますが、そのはじまりである1節は「ですから」という言葉ではじまります。これは、ここまで書いてきたことを理由に、ここから記す生き方を勧めるのだ、とわかるキーワードで、とても重要な一言です。
この「ですから」とその背後にある内容を無視して、一気に具体的なことに飛びつきたくなることがあります。そうするとその具体的な生き方ができるかできないかで必要以上に落ち込んだり、あるいはその具体的な生き方にだけとらわれて「律法主義」と言われるような生き方になってしまうこともあります。だから、この「ですから」に含まれていることが何だったかを抜きにこの12章以降を読んでいくと大変なことになります。
「福音に生きる」ということも「生きる」ということばかりに目がいき、「福音」って何だったのが抜けてしまうことがあります。大切にしたいのは、「福音に」生きることです。福音に根ざした生き方、福音に押し出されて生きる生き方です。それは具体的な生き方を考えることよりむしろ、福音に浸り続ける生き方、福音に聞き続ける生き方と言えるかもしれません。その上で、福音に応答する生き方、それが「福音に生きる」生き方と言えるでしょう。福音に押し出されて、神様のあわれみに対して感謝の応答をしていく生き方です。その福音に押し出される生き方だからこそ「ですから」と聖書は記します。
それは、もはやできるとかできないとかいう次元の話ではなく、あわれみによって救ってくださった神様に、なお変えていただく生き方です。今ふさわしくなかったとしても、変えられやすい人として、変えられることに心を開く生き方です。これからもあわれみにすがっていく生き方。ここまで私をあわれみ、恵みを与えてくださった神様は、これからもあわれみと恵みで私を導いてくださいます。その福音に押し出されて、今日も福音に生きたいと思います。