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砕かれることで前進する世界宣教


証し#60 執筆担当:島田祐也(世界宣教部長・留学生宣教責任主事)


いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。


「わたしは、高く聖なるところに住み、砕かれた人、へりくだった人ともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」


イザヤ書57章15節(新改訳2017)


預言者イザヤは、北イスラエルと南ユダの偶像礼拝による堕落を背景に、イスラエルの罪に対する恐ろしいさばきと、同時に、そこに現れる救いの慰めと希望を語りました。この箇所には、そのイスラエルに対する神の愛、そして、理解しがたい不思議さが現わされています。


度重なる偶像礼拝と外国からの圧迫によって、すべて奪われボロボロになっていくイスラエルの民。その砕かれ、へりくだった人々とともに神は住むと言うのです。


神が砕かれた人とともに住むという事実は、神のことばであるイエス様が、神に逆らう罪人である私たちの間に住んだということ(ヨハネ1:14)に最もよく現れています。


また、今は、レント(受難節)ですが、イエス様があの十字架の上で、すべて奪われ、この世界で最も砕かれた、へりくだった人となった時、そこに神の臨在、神の愛、神のさばきと救い、神の聖さが究極的に現わされました。


世界宣教は「ひとりの神が、造られたひとつの世界で、ひとつの民である私たちを通してなさる、ひとつの宣教」です。遣わされた地で福音に生きる私たちの宣教の歩みは、神が、先んじて、主体的に、主導権をもって、まずなしてくださることです。この主が私たちを通してなさろうとしているわざをまず受け入れること、目撃することから世界宣教は始まるのです。


そして、それは、私たちがへりくだること、砕かれることから始まります。なぜなら、神は、へりくだった人、砕かれた人ともに住むから。私たちが自分たちの罪に無力さを覚え、自らの弱さに、欠けに、与えられた使命の大きさに、向かってくる敵の強大さに圧倒され、絶望する時、神は、私たちとともにおられる。


私たちは、自分でへりくだること、砕かれることさえできない。へりくだること、砕かれることも神がしてくださることです。宣教の旅路の中で出会う苦難や、困難、試練を通して、私たちは砕かれ、へりくだらされていきます。


友人に福音を伝えようとして拒絶される時。働く中で日本と世界の現実を知り、絶望する時。家族や学校の友人の現状を思って嘆く時。属する教会を愛そうとしても愛せない現実。簡単な奉仕や仕事さえ、自分の力ではできないと気づかされる時。何よりも、神と人を愛そうとする中で、出会う私たち自身の罪。


私たちが自信を失い、私は何も持ってない、何もできない、何者でもない、何の価値もないと、そう砕かれ、へりくだる時、この神が私たちとともにおられる。


そして、この方が、「へりくだった私たちの霊を生かし、砕かれた私たちの心を生かしてくださる」のです。この「生かす」ということばは、英語ではリバイブということばに訳されています。リバイブ、よみがえらせる。それは、私たちのリバイバルです。


歴史の中で、何度となく起こってきたリバイバル、すなわち、人を悔い改めと救いに導く「普通の」聖霊のわざが、「異常」なほどの質と量で起こる歴史的出来事は、いつも、教会の悔い改めと祈りから始まってきたと言われます。


悔い改め、祈ることさえ自分でできない私たちは、神の優しい御手によって与えられる試練や困難、苦しみを通して、砕かれ、へりくだらされる。そうして砕かれ、へりくだった私たちの心と霊を、主は、イエス・キリストをよみがえらせたあの万能の力によって、聖霊の力によって、よみがえらせ、キリストのいのちを、私たちのあの学校に、家族に、職場に、この日本に、世界中に満ち溢れさせてくださるのです。


私は、この3月でKGKを退職しますが、この5年間のKGK主事としての奉仕は、コロナや様々な危機対応を通して、まさにこの「砕かれることで前進する世界宣教」を身をもって体験する時でした。支えてくださった皆様と神様に心から感謝しつつ、主の御名をほめたたえます。

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