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教会における信仰継承について・その6


コラム#6 執筆者:吉澤慎也(総主事)


前回は「聖俗分離」について取り上げた。特に、聖俗分離という教えによって、教会で育っていく若者たちの職業観が歪められてしまう課題について述べた。


今回も、前回の「聖俗分離」の延長のような話を記してみたい。


教会で育った若者の中には、教会の文化や伝統が、あまりにも世俗の文化からかけ離れているように感じられ、それらが世間一般的にはひどく受けの悪いものであるに違いないと考える傾向があるように思う。例えば、そんな彼らは、もし仮に自分の友人にキリスト教の賛美を紹介することがあったら、伝統的な聖歌讃美歌などではなく、コンテンポラリーなワーシップソングを紹介したがる。友人にはまず、文化的な差異よりはむしろ共通点を強調して紹介したいと思うからだろう。


また彼らの多くは、教会の礼拝文化のいくつかは、未信者にとってつまずきになるに違いないと考えている。かしこまった言葉遣い、キリスト教の専門用語、文語調の歌詞、そして分かりにくい説教。実際にそれらがつまずきになった場面を経験したことがなかったとしても、おそらくそれらはつまずきになるはずだと信じているように思える。


ともすると彼らは、キリスト教とは一般的な未信者(例えば、自分の学校の友人など)には非常に受けが悪いものだと思っているのだ。自分はクリスチャンである親の元に生まれ、幼い頃から教会に通っていたがゆえに、一見非合理なキリスト教文化を受け入れることができてはいるものの、そうでない他の皆様にとっては、これを受け入れるなんて相当無茶なハードルだと。そうして「もし自分がクリスチャンホームに生まれなければ、自分はクリスチャンになっていなかったかもしれない」なんて考えも浮かんでくる。


しかし彼らは一方で、教会の文化や伝統が無意味でやめるべきものだとは思っていない。教会にとってのその大切さもまた何となく理解しているつもりだ。それゆえに、敢えて声を挙げて改革しようとも考えない。彼らは静かに諦観を強めていくのかもしれない。


教会における信仰継承を考える時、教会で育った若者たちの意識が、礼拝にただ受け身でいる側から、礼拝に参与しそれを創り上げていく側へと変革されていく必要があるだろう。教会を建て上げる若者を育てるために、彼らの礼拝に対する当事者意識を励ましていきたい。

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