教える力のある・信頼できる人に
- KGK公式ブログ
- 6月4日
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証#102 執筆担当:岩井律(中四国GA)
みことばと向き合う中で神の素晴らしさを知ることができたKGKライフは、一人の大人としてキリストを主と告白する歩みへと導いてくれた、大学生活の中でも非常に大きな経験でした。そのKGKでの働きに、卒業後も携わらせていただくことは、本当に大きな恵みです。
この働きに携わる上で、主によって成長させていただきたいと願っていることが2つあります。2月に行われたある集会で開かれた、2テモテ2:2から学び、チャレンジされたことです。
「多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人たちにも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。」(2テモテ2:2・新改訳2017)
この箇所から、みことばの奉仕者に求められる資質は、1) 教える力がある人であること、2) 信頼できる人であること、の2点に要約できる、と語られました。
「教える力がある」という点については、2年間のGAとしての訓練の中で成長できることをとても楽しみにしています。研修やメンター主事との訓練の中で、学内聖研やブロック、合宿などの機会を通して、学生との1対1の交わりや教会での奉仕を通して、あらゆるミニストリーの機会を通して、みことばを忠実に・わかりやすく伝えられるものへと成長させられることを願っています。
そして、「教える力がある」ということは、単に説教や形式的なミニストリーにおいて教えるスキルが高まることを指すだけではない、ということも語られました。同じ手紙の4:2には、「忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」と書いてあります。
「みことばを語る」ということは、単に「古文書」を解説するということではなく、神との出会いに人々を招くことです。神の真理に向き合った時に、素直に受け止める人もいれば、なかなか心を開かなかったり、背を向けようとしたりする人もいることだと思います。そのような、あらゆる種類の反応に対して、粘り強く、「忍耐の限りを尽くして」みことばを伝え続け、神との和解に招き続けることも、「教える力」に含まれているのではないか、というメッセージでした。
私に福音を伝えてくれた家族や教会の人たち、その他あらゆる信仰の先輩や仲間たちが、私に忍耐の限りを尽くしてくれたように、私も、忍耐の限りを尽くして、粘り強く、あらゆる方法・あらゆる機会を活かしてみことばを語るものとして成長させられていきたいです。
2点目の「信頼できる」という点については、より深く心を探られました。このメッセージを聞くまでは、どこかこのGAの働きを、「教える力」というアーマーを体に装着するための訓練だと思っていました。しかし、より大切なのは、「信頼できるものであるか」、つまり自分が語っているみことばの通りに実際に歩んでいるかどうかであるのだ、とチャレンジされました。
それは、自分の外面やスキルという外部装置だけでなく、人格や品性を暴き出し、みことばと聖霊による内面の改造手術が行われるというプロセスですから、痛みと悩みと苦しみを伴うものだと予想されます。そういうわけで、正直なところ、この成長と訓練を非常に恐ろしく感じています。しかし、外面だけでなく、全人格が神に喜ばれるキリストの似姿に向かって成長できるとしたら、それは大きな喜びでもあります。ですから、罪を神と人との前に正直に告白し、悔い改め、みことばと聖霊によって、信頼できるものへと日々成長させられていきたいです。