証#81 執筆担当:杉山琴映(事務宣教局担当主事)
「こっちゃん大好き!だって神様が造ってくださったんだもん。」
10代後半、クリスチャンの友人からこんな風に愛を受けて、私の人生は変わりました。
その頃の私は、目立ち、認められ、褒められることにしか原動力を見いだせず、勉強や部活、人間関係において比較の中でもがいていました。比較しても勝てるように感じていた子供時代とは異なり、高校以降は挫折感と焦燥感がいつもあったように思います。友人との関係でも優劣の価値観を手放せず、誰かを思いやったり共感したりすることのできない自分の冷えた心を、怖いと感じていました。そして当時の私は、神様の話を聞いてはいましたが、自分事として理解することはできませんでした。
そんな中、神様を信じて祈り、時に手を挙げて賛美し、素直に人と向き合うクリスチャンの友人たちの姿は、私を戸惑わせました。彼らに憧れ仲間に入れてほしいと感じましたが、実際の私の心はどこか冷めたまま。本当の自分の気持ちがいつもわからず、自分にも他人にも神様にも、本音を隠すことが癖になっていたのかもしれません。そんな私を神様の癒しの道へと招いてくれたのが、冒頭に書いた友人からの一言でした。
正直この言葉を聞くまで私は、いつも近づいてくるこの無邪気な友人の存在に、戸惑っていました。しかし彼女の愛情の条件は、私が何かを得意だからではなく人間的に立派だからでもなく、ただ神様が造ってくださったから。それだけでした。私の周りには他にも、そんな風に私を大切にしてくれる人達が与えられていきました。彼らは皆、比較や評価に囚われることなく、神様の無条件の愛に身を委ねていました。自らが神様の愛を心に受け取ったからこそ、不器用で自分を隠してばかりの私のことまで気にかけて愛を注いでくれたのだなあ…と今になってわかります。
人と自分を比べてしまう価値観の中でも最後まで纏わりつくのは、自分の汚い罪の現実かもしれません。自分の醜さやズルさが赦されるとは想像できず、もはや目を向けることもできない。しかし、自分が誰よりも劣って惨めに見えるその最低の場所に、すでにイエス様の十字架の愛がある…そのことが自分事になっていったのは、あの友人の一言を聞いた何年も後、大学を卒業する頃でした。でも振り返れば癒しの道のりは、あの時から始まっていた。聖書の価値観に立つことのできなかった私を愛したのは、十字架の愛と赦しを心に受け取った人達でした。今、私も、毎日新しくイエス様の愛の深さを味わって、その愛を“本当の自分を探している誰か”に分かち合っていく者でありたいと願います。
「あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。」ゼパニヤ3:17(新改訳2017)
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