証#76 執筆担当:岩井律(関東地区KGK実行委員長、東京大学4年)
僕の誇りは、勉強でした。高校時代に頑張って勉強したので、第一志望の大学に合格し、勉強によって自分の人生に自信を持つことができるようになりました。
しかし、この勉強という誇りには、大きな問題がありました。それは、その価値が、他の人との比較で決まる、ということです。自分より成績の高い人を見ると、落胆したり妬んだりし、成績の低い人を見ると、見下したりするようになってしまったのです。どんな人に出会っても、まずその人の学歴が気になってしょうがなくなり、自分より勉強ができない人を尊敬できなくなっていってしまったのです。
そんな中、大学生になった僕は、KGKの夏のキャンプで、一つの衝撃的な聖書のことばに出会いました。
「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。」ガラテヤ人への手紙6:14(新改訳2017)
著者パウロは、当時のユダヤ社会の中ではエリート中のエリートでした。律法を守ることにおいて、彼には、自慢の経歴があったのです。
しかし、ある時イエスに出会って、彼の人生は完全に変わりました。善人だと尊敬されていたパウロも、聖なる神の前には、ただの薄汚い罪人の一人だと気がついたのです。そして同時に、その罪深いパウロ自身の代わりに、神の子であるイエスが十字架の上で罰を受けてくれたことを、心の底から理解できるようになりました。だからパウロは、今までの経歴を福音のために捨て、それらをゴミだと思い、イエスの十字架のみを誇るようになったのです。
このことは、僕の人生を大きく変えました。僕の学力が証明したのは、僕のかしこさ、素晴らしさではなく、人を見下す僕の罪深さ、汚れでした。でもキリストの十字架が証明したのは、「全世界を治める唯一の神に、そのひとり子のいのちを与えるほどに愛されている」という僕の価値でした。だから、僕は、キリストの十字架こそが自分の人生の誇りである、と信じることができるようになりました。
キリストの十字架のみが誇りであるのは、僕だけでなく、関東地区KGKの学生にとっても同じです。今年の関東地区の年間テーマは「キリスト、わが喜びの理由」です。他の何ものでもなく、キリストの福音こそがわたしたちの真の喜び、唯一の誇りである。だから、この福音に押し出されて、福音のために生きていく。生活の全ての領域の中で、キリストの十字架を最大で唯一の誇りとして生きていくものへと、神様が、わたしたちをよりいっそう造りかえてくださいますように。