ショートメッセージ#4 執筆担当:小林祐(関東地区担当主事)
「『やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。』万軍の主は われらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。」
詩篇46篇10節、11節(新改訳2017)
忙しなく過ぎていく日々。何かに追われているような感覚。理由のわからない生きづらさや困難。私たちの心を時に支配し、時に騒ぎ立てるそのような切迫感と、あなたはどのように向き合っているでしょうか。
詩篇46篇を歌ったイスラエルの民も強い切迫感にかられていました。周辺諸国からの敵意に脅かされていた彼らは、その脅威に何とか対抗しようと、あらゆる手段を講じていたことでしょう。
必死にもがく。その行動の背景にあるのは多くの場合「不安」や「恐れ」です。何とかして、このような危機的状況を打破しなければならない。しかし、どれだけもがいても状況は良くならない。すると、恐れは焦りに変わり、より強い切迫感となって心を支配していきます。
しかし、神さまは言います。「やめよ。知れ。わたしこそ神。」
「やめる」という言葉は、他にも「静まる」「力を捨てる」などと訳されることがあります。一旦手を止め、 足を止め、力を抜きなさい。恐れや不安、切迫感に支配されて突っ走る者たちに神さまはメスを入れ、「立ち止まって、わたしが神であることを知るように」と招かれます。
立ち止まらなければ気づかないことは多々あるように思います。私は13年間、陸上競技に打ち込んできました。全力疾走をしている時は、どのような風が吹いているのかわかりません。練習に集中し切っていればなおさら、風のことなど気にも止めません。しかし、足を止め立ち止まると、追い風が吹いていたことにはじめて気づき、その風が背中を押しくれていたことを知るのです。
信仰の歩みも似ているように思います。がむしゃらに進んでいる時には気づけない神さまの働きがあり、足を止めてはじめてそれを実感するのです。
「やめなさい。そして知りなさい。わたしが神であることを。」
その声は、決して私たちが常に何もしないことを肯定する響きではありません。むしろ、恐れの中でもがくのをやめなさい。立ち止まり、神であるわたしがともにいることを思い出して、再出発しなさい。そのような招きの声として聞こえてきます。
そして、詩篇46篇はこのように結ばれます。
「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。」
立ち止まって、身に染みて分かったこと。それは、私たちの砦なる主がいつもともにおられる、という福音です。だから、恐れに支配されて生き続けなくて良い。立ち止まることは遅れをとることではありません。それは、神を知り、福音の豊かさを知り、その喜びをもって遣わされた地で歩み続けるための勇気ある一歩です。