ショートメッセージ#12 執筆担当:大塚信(関東地区担当主事)
「やめよ。知れ。わたしこそ神。」(詩篇46:10・新改訳2017)
現代に生きる私たちが口にする口癖の中で最も多いものの一つは、「忙しい」という言葉でしょう。以前、学生たちと車の中で「学生の忙しさ」について話していました。ある学生は、「忙しいという状態が何か自分が重要な人物だと感じさせるから使ってしまう(裏を返せば自分が重要な存在だと思えない)」、また別の学生は「忙しくないと逆に自分は頑張っていないんだと思い、不安になる」と言っていました。
聖書では、「静まって、知れ」ということがよく語られています。しかし、そうするのが良いと知っているのに、なぜ私たちは日常生活でそれができないことが多いのでしょうか。
詩篇46篇はエルサレムが敵国アッシリアに包囲された時に詠まれたものとも言われています。これは、8-9節から推測されます。つまり、この箇所は戦争を背景にされたものということです。イスラエルの民は危機的状態にありました。命がかかっている彼らほど心が騒ぎ、「不安」な人々はいないでしょう。彼らが戦争、あるいはその準備の手を止めるというのは死を意味するからです。
私たちがどうしても手を止められず忙しくしてしまうことの本質とは何でしょうか。それは「不安」だと思います。あるいは「恐れ」と言ってもいいかもしれません。イスラエルの民のように死に直面してはいないかもしれない。しかし何か頑張っていないように思える自分は価値がないと感じてしまう。
世の中を見れば、あなたが不十分であることを間接的に伝えニーズを作り出す広告で溢れかえっています。電車に乗れば、英会話や美容、脱毛に高級住宅の広告。インスタを見れば、自分の周りだけでなく世界中の自慢を目の当たりにすることになります。もちろん刺激を受けて頑張ることはいいことですが、同時に心の奥底に自分は足りないと刷り込んでいくことになるのです。現代の学生が努力家である一方で、自己肯定感が低いのはこのことにも起因しているのではないかと思います。
では、私たちはどのようにしたら忙しさから脱却していけるのでしょうか。詩篇46篇10節では、「やめよ。知れ。」と言われています。私たちは往々にして、忙しさから脱却するために「やめる」ことはします。しかし、私たちは何かをやめてみるだけでは、そのうち同じように忙しくなっていくでしょう。不安が解消されていないからです。ところが聖書は、それだけではないと言います。「やめよ。」では終わっていないのです。「やめよ。知れ。」と言っているのです。それでは、何を知るのでしょうか。それは「私こそ神。」ということです。この神とは、詩篇46篇によると、(1節)避け所、強き助け(5節)その只中におられる、揺るがない(7節)ともにおられる、砦(7節、11節)とあります。
聖書は、この神をあなたに知ってほしいと語っています。私たちは、ただやめるだけで終わるのではなく、この神を知るときに忙しさの本質的な部分、根っこの部分、(不安や恐れ)から癒されていくのだと思います。
「やめよ。知れ。わたしこそ神。」(詩篇46:10・新改訳2017)
これを読んでくださったあなたが、もっと神様のことを知りたいと少しでも思ってくださったら幸いです。