「互いに」という交わりへ
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- 7月23日
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証し#109 執筆担当:縄谷佳歩(東北地区担当主事)
一年と数カ月前、就任式後に新主事としての意気込みを伝える時間がありました。その際に話したことは「学生と共に神様のことを知り、祈り、時に葛藤したり嘆いたりしながら、分かち合いをしたい、共に祈る人になりたい」という「共に」を大切にしたい思いでした。今日までの主事生活を振り返ると、その願いが聞かれてきたことを覚えます。
学内活動で聖書を開いた時間、信仰生活で感じる難しさを前に一緒に悩んだこと、合宿で決心を聞いたこと、個人的に祈った時間など…学生たちと共に学び・祈り・喜び、時に悲しむというような日々がありました。そして、過ごしてきた交わりをよく見つめてみると「共に」という交わりを越えた、「互いに」という関係性が築かれていることを感じました。
「共に」という言葉の中には「互いに」という意味も含まれているように思います。しかし、少し細かいようですが、今の学生との交わりには「互い」にという表現の方がしっくりきます。というのも、意気込みの中で大切にしていた「共に」という言葉は「この学内を支えたい」「この学生に会いに行こう」というような、自分から一方的に矢印が出ているような、自身が寄り添っていくイメージでした。学生に仕えるという意識が強くあったことも関係しています。そんな中で主事としての働きが始まり、学生との交わりが積み重ねられていくにつれて、これまで抱えていたイメージが壊され、変えられていきました。互いに関わるという機会が増えていったのです。
「互いに」という言葉は、ただ一方的に何かアクションを起こすのではなく、相手と向かい合って、それぞれから出る矢印を受け止め合う関係だと感じます。勿論、学生に仕えていくという姿勢に変わりはありませんが、交わりの中で、私自身も心を開いて、学生に分かち合っていくこと、時には助けてもらう(協力してもらう)ことが示されていきました。正直、自身の心の内を伝えることに苦手意識があるため、チャレンジしなければならない面もあります。受け止め合うまでに時間を必要とすることや、受け止められないような物事だってあるかもしれません。けれども、学生も神様に仕える同労者であることや、祈り合える、支え合える、学び合える交わりがあることを教えられています。
先日、一人の学生と聖研&祈り会をした時のことです。自然と互いの抱える悩みや、心の痛みを分かち合っていくような時間が与えられました。互いの存在に信頼して、正直に分かち合う時間を過ごしました。それぞれ受け止め、祈り合った時間は、神様の導きを覚えるようなひと時だったように思います。
神様から背中を押されるように、互いの心に触れ合っていくような交わりへと、どんどん招かれていっているように感じました。「互いに」という交わりの中には様々な難しさも、チャレンジもありますが、主事として、私として、大切にしたい交わりはこれなのだと思わされています。
ますます、互いに覚え合い、学び合い、祈り合い、愛し合う交わりがこれからも持たれていくことを願いつつ、「互いに」という交わりを建てあげていきたいです。
あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。
ペテロへの手紙第一 1章22節(新改訳2017)






